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東日本大震災から10年 あのとき被災地で、私が感じたコト

2011年3月11日当時、私は宮城社会保険病院(現 仙台南病院)に後期研修医として勤務していました。私が地震による強い揺れを感じたのは医局で午前中に終えた手術について復習し、論文を作成していたときだったのを覚えています。宮城社会保険病院は、仙台市中心部から南に位置し、となりの名取市との境にありました。被害の大きかった名取市閖上や仙台空港まで車で30分とかからない距離にあり、東北自動車道の高架をくぐり太平洋岸沿いをよくドライブしたものでした。震災前はその後、この東北自動車道に守られることになろうとは考えてもいませんでした。

言葉でどのように言えば伝わるか分からないのですが、東日本大震災の揺れは恐怖を感じる強さで、人生で初めて小学校の避難訓練で習ったように机の下に潜り、机が離れていかないように机の脚にしがみついていました。『机が壊れたら死ぬかな・・・』と意外と冷めた感じの恐怖だったのを覚えています。

私が居た医局は、スプリンクラーが作動したせいで床は一面水浸しで、床に落ちた書籍や書類もベチャベチャでした。手術室は2階にありましたが同様でした。『とんでもないことが起きた』ということだけは分かりました。

揺れが落ち着いたところで安堵した職員の声が聞こえましたが、その後入院患者の安否を確認しました。

小さい頃から地震が起きると建物から広場に避難するように通常言われます。何も情報がない中でしたので、余震に備え入院患者を階段で屋外へ誘導していきました。そのうち、どこからともなく『津波』、『警戒』、『避難』、『高いところ』というワードが聞こえ始めました。今まで知っていた『避難』とは全く逆のセオリーでしたので、皆んな恐怖と混乱で騒然となりましたが、今度は病院の3階以上に避難を始めました。

まさか、『津波』とはそこが海になることだと知る由もありませんでしたが、その数時間後、テレビから大量の水で流される家屋の映像が流れ、名取市閖上と書いてありました。

『とんでもないことが起きている』ことを皆んなが目にして、さらに頻回に余震もありましたので大混乱しましたが、何とか冷静に患者搬送に備え、3階の食堂に予備の布団を並べ、早急に2列の診療ラインを作りました。その後、どれくらい寝なかったのか覚えていませんが、水浸しで泥だらけの患者が次々に搬送されてきましたのでその対応に追われました。

不謹慎ですが、幸いなことに宮城社会保険病院は津波の被害には遭いませんでした。後に分かったことですが、太平洋と並行して走る東北自動車は盛って造られていたお陰で防波堤になってくれたのです。

時間が経つにつれ被害の大きさと状況が徐々に明らかになってきました。明るくなると、1階での診療を開始しました。転倒や怪我の患者、搬送患者が増え始め、建物の裏に並ぶ御遺体の数も増えていきました。

東日本大震災は、地震・津波、そして福島原子力発電所の被災が重なった歴史上類をみない災害です。当時は放射線汚染の恐怖も非常に大きなものでしたが、東北自動車道の損傷と福島原発が被災した影響で、関東圏からの物資の輸送がほぼ完全に滞り深刻な物資不足でした。

そんな中、見ず知らずの緊急車両が病院に大量の白米の塩むすび🍙やバナナ🍌を届けて下さったり、製薬会社が患者や職員へと食料・飲料など在庫品を置いていってくれたり、あの時は本気でウルウル目に涙が浮かびました。

地震から数日後、私たちの病院は、宮城県名取市〜亘理市まで広域で避難所への広域の医療支援を開始しました。ある時、避難所で人工肛門の処理に困っていた女性の話を聞いて、即日人工肛門の予備のパウチと備品を持っていき、避難所の保健師に指導したことがありました。
後日、その女性とのエピソードが新聞記事になり、ある財団から私たちの病院が表彰されるという栄誉を授かることになります。

仙台港が壊滅的被害を被っていたこと、そして東北自動車道が機能不全に陥った影響でガソリン不足も深刻でした。ある日、アメリカ軍🇺🇸がやって来て、『OIL or gasoline』➡️『重油かガソリンをどっちか選べ』と言われたとき我が病院はガソリンを選び貰いました。しかし、街中大停電、深刻な物資不足のなか、徐々に手探りでしたが、あの時本当に必要だと感じたのは、①食料、② 確実な情報、③重油です。

アメリカ軍🇺🇸に『OIL or gasoline』と言われ、ガソリンを選んだのは重油の確保が別に出来ていたからです。なぜ重油?と思われるのも無理はありません。重油は、非常用発電器を作動させるのに必要なのです。

その後、さらに明るみになった被害・犠牲者は凄惨な状況でした。
あの震災で周囲の環境は大きく変わりましたが、私自身が何か大事なモノを失ったわけではありません。

しかし、あのときは何とも言えない強烈な虚無感に襲われました。

『人間は望む望まないに関わらず必ず死ぬのだ。しかも、意外と呆気なく死ぬ。』

あの震災で、医師という役割について私の考え方は変わったかも知れません。人間は必ず死ぬことを前提として受け入れ、『ではどうすれば目の前の患者が幸せを感じて生きれるように医学的にアプローチ出来るのか?』。

人生は歳をとるほどスピードが上がっていくように感じるものだ。1歳児は時速1km、20歳成人は時速20km、60歳還暦は時速60km、70歳古希は時速70km、80歳傘寿は時速80km、90歳卒寿は時速90km、100歳紀寿は時速100kmと加速して行く。

命は失ってしまえば、2度と手に入らないのである。だから、尊いのだ。

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